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トルコと日本とは特別な関係にあります。両国の関係は1世紀以上にわたり相互の尊敬と親近感に支えられ、困難の時には結束して助け合ってきました。文化的にも似た面があることに加え、民主主義や人権、法治主義を尊重する共通の近代的価値観、そして世界の平和と安定を希求する熱き思いの共有が両国関係の根幹には存在しています。
このような関係は、さまざまな共同プロジェクトの実施によって親近感という確かな基盤が築かれるなか、今日まで確立されてきました。幸いにも、両国間には政治的な対立は一切なく、金融や投資の分野での協力や文化活動、観光事業が活発に行われるようになってきていることは特筆に値します。しかしながら、協力関係はまだまだ本格的なものとはいえず、経済や商業、観光の分野で、互いに実りある形で協力関係が発展するよう共に取り組んでいかなければなりません。
協力関係の発展にとって最も効果的な方法は、お互いに対する知識を深めることです。2003年を「日本におけるトルコ年」とすることは、このような意味で絶好の機会となります。1年を通じて、両国関係の歴史や、変化に富み、さまざまな魅力を持ったトルコの文化、さらには我が国の経済のあらゆる可能性や多様化を続ける貿易活動について、日本の皆様に詳しくご紹介する機会を得られることでしょう。
「日本におけるトルコ年」が両国にとって有益なものとなることを確信しつつ、「日本におけるトルコ年」の企画と実現にご尽力いただいた皆様に感謝の意を表するとともに、日本の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
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2003年1月
トルコ共和国首相(当時) アブドゥッラー・ギュル
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| *現在はトルコ共和国外相、トルコ共和国副首相に就任。 |
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本年、すなわち2003年は「日本におけるトルコ年」にあたります。つまり、一年を通じて、文化・観光・投資を柱としたトルコに関係ある行事が日本で行われます。トルコの方々は日本に対して深い親近感を持っておられます。我々もこの機会に、トルコ人やトルコ文化について十分に体験し、今後の両国の親善友好に役立たせたいと思っております。
今日、日本とトルコの両国は、アジア大陸の東西両端に離れて存在しますが、歴史的に見れば、古くから日本人もトルコ人も、陸・海各種の通路により、相互に何らかの文化的影響を受けてきたのだろうと思われます。
日本では1868年に明治維新が行われ、国の近代化が進むにつれて、日本人の関心は遠く欧米諸国の文化に向けられました。皇室においても、こまつのみやあきひと小松宮彰仁親王・同妃が一年間にわたりヨーロッパ諸国を訪問され、1887年にはオスマン・トルコ帝国の都イスタンブールにおいて、アブデュル・ハミト2世皇帝に明治天皇から贈られた勲章(大勲位)を親書とともに伝達されました。
それに対して、同皇帝はトルコ帝国の最高勲章を明治天皇に贈呈されました。その答礼使が乗った軍艦エルトゥールル号が帰路暴風に遭遇し、和歌山県串本沖で遭難しました。1890年9月16日のことであります。その際、オスマン・パシャ以下600余名の乗組員の内、69名だけが村民たちの必死の作業で救助され、日本政府は軍艦2隻に彼らを乗せてトルコに送り返しました。
その後、遭難現場である大島のかしのざき樫野岬には記念塔が建てられ、毎年慰霊の式典が行われております。また、トルコのメルスィンにも答礼使が帰着した記念塔が建てられており、先年同地を訪問した私の長男、ともひと寛仁親王は、そこに樫野岬で採集された土と水とが納められていたと、いたく感激しておりました。なお、串本町はトルコのメルスィンおよびヤカケントと姉妹都市になっております。
第一次世界大戦後、新たにトルコ共和国が建国されました。そして1923年のローザンヌ講和会議の際には、トルコのイノニュ首相が日本との国交樹立を希望したという記録が残っています。そして1924年にはそれが実現いたしました。以上のごとき情勢を受けて、1926年には「日土協會」が設立され、1929年には私の兄の高松宮のぶひと宣仁親王が総裁に就任しました。
その後、日本からは、高松宮・同妃が1931年に同国を訪問いたしました。両人はまずイスタンブールに入り、兄だけが新首都アンカラを訪れ、ケマル・アタテュルク初代大統領にお会いしました。その時の記念写真が、今も私の部屋に飾ってあります。
第二次世界大戦にあたり、両国はやむを得ず断交しましたが、サンフランシスコ平和条約が発効するや、両国の友好関係はもとに戻りました。1971年には「日土協會」を引き継いで「日本・トルコ協会」が発足し、新時代に適した活発な活動を開始しました。協会は機関誌として「アナトリアニュース」を発行していますが、毎号にはトルコの歴史・伝説・言語から現在の政治・経済・学術・スポーツ・料理などあらゆる方面の記事が興味深く記されております。その総括として、1996年には「日本・トルコ協会70年史」が発刊されております。ぜひ皆様にお読み頂きたいと思います。その間、1991年には私が名誉総裁に就任することになり、今日に至っております。
さて私たち夫妻は、1963年4月にトルコ政府のお招きを受け、初めて同国を訪れました。アンカラではまずアタテュルク廟に参拝し、故大統領の生涯を偲びましたが、そこには高松宮の記念品も陳列されていたことに、深い感銘を受けました。
その後、1986年に再びお招きを受けて、我々夫妻はトルコに参りました。その時、ちょうど日本週間が行われており、色々な行事をみましたが、トプカプ宮殿の前庭における日本式の茶会は裏千家が担当しましたので、若宗匠と共に夫人まさこ容子(我々の次女)も参加しておりましたのを、いまだに嬉しく思っております。また、そこからボスポラス海峡の上空を彩った花火大会を眺めたことはきわめて印象的で、今もよく話題にしております。
その機会に、私は中近東文化センターによる発掘調査の鍬入式をさせて頂きました。場所は、タフスィン・オズギュッチ教授が推薦されたカマン・カレホユックの遺跡であります。
また私は1989年に、思いがけず「第四回アタテュルク国際平和賞」を授与されるという光栄を担いました。このことは、トルコ政府ならびに国民の方々の我々日本人に対する信頼感と親愛感の現われでもあり、改めて深く感謝したいと思います。
1993年にも私と妻はトルコを訪れました。その際、カマン・カレホユックの発掘隊用地に造った日本庭園の開園式を行ないました。庭園にはトルコ国内の色々な樹木を集め、サクラとモミジは日本から運びました。池には岩山から滝水が流れ込み、川から捕ってきた魚も泳いでいました。
何よりも嬉しいのは、発掘期間中トルコの方々が毎日訪れ、年間で2〜3万人にもなることです。こうして、予想もしなかった両国交流の場が出来た次第であります。
それからチャナッカレ大学にお招きを受けました。同大学には日本語教育学科が開設されたこともあり、私は「サクラと日本人」と題して講演を行なう光栄を担い、またサクラを植えました。
さて発掘の方は毎年続けておりますが、フリュギア・ヒッタイト・アッシリアなどの文化遺跡や遺物が見つかり、古代アナトリア史の究明に重要な手がかりを見出しつつあります。これらの成果は、中近東文化センターで編集刊行しています“Anatolian Archaeological Studies”などに載っております。
発掘隊も最初は日本の学者たちでありましたが、今では外国の学者たちを交えた国際的なものになりましたので、我々は本トルコ年を目標に日本国内で募金活動を行っております。そして、発掘隊用地に国際的な発掘調査研究に応じうる「アナトリア考古学研究所」の建造物を建てる予定であります。
話を日本国内に移したいと思います。第二次世界大戦後、日本でも各種の外国文化の展覧会が開かれました。トルコに関しましては、「トルコ古代美術展」(1960)、「トルコ文明展」(1985)、「トプカプ宮殿秘宝展」(1988)などがあり、さらに昨年からは「大トルコ展」が日本の各地で開催されております。さらに本年にはNHK主催による「トルコ三大文明展」が予定されております。そこではヒッタイト・ビザンツ・オスマン三大帝国の秘宝が見られるものと大いに期待しております。
他方、日本とトルコ両国の経済的交流も、ハッサンウールダム発電所建設やゴールデンホーン架橋など円借款が供与されたりして、大いに伸展しました。また両国の共同プロジェクトで架けられた第2ボスポラス大橋は友好のシンボルとなっています。さらに日本の経済団体連合会が「日本トルコ経済委員会」を組織し、1987年より毎年、日本とトルコの経済界が交流を続けております。
政治的には1984年に、国会議員により「日本トルコ友好議員連盟」が設立され、議員相互の親睦を深め、両国間の友好親善の促進に努力されています。
以上のように、我々は未来に明るい希望を持っておりました。ところが、今日の日本国の不況は予想を上回るものであり、ここ暫くは忍従を強いられると思います。しかしながら、我々は希望を失わず、特に本年の「日本におけるトルコ年」の諸行事に参加することにより、日本国民が友邦トルコ国の政治・経済・芸術その他あらゆる文化について一層の理解を深め、今後ますます友好親善の実をあげたいものと念願しております。 |
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