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現在は串本町に編入されているが、大島は当時「大島村」といい、三つの集落から成っていた。東部の樫野、中部の須江、西部で串本と向かい合う大島とである。樫野の区長は夜を徹して遭難者の収容と手当てに当たったが、夜があけると大島地区へ急行。村役場へかけ込んで村長の沖 周(おき しゅう)に「一大海難事故」の発生を報告した。沖村長は冷静にして迅速に指示した。郡役所や県庁への連絡、医師や巡査の招集、各戸から1名の人手をだすようにといった手配をすると、舟で遭難現場の樫野へ急いだ。
樫野の大竜寺と小さな学校と灯台に収容されたエルトゥールル号の生存者が69名にのぼった。もとより寒村だったが、大島村の人たちは生存者に食べてもらおうと、ニワトリや卵やサツマイモなどを持ち寄ってきた。自分たちのあすの食糧にもこと欠くというのにだ。また、はだか同然の生存者たちに、浴衣なども提供している。
沖村長は、「樫野では十分な手当てもできない」と、17日午後、生存者を大島地区の蓮生寺へ移し、日本の汽船に神戸の外国領事館への通告を頼んだ。神戸港に居合わせたドイツの砲艦ウォルフ号が大島港に現われたのは、9月19日。生存者は同艦にて神戸の病院に移送され、手厚い看護を受け帰還の日を待った。
帰還の日は思いのほか早く実現した。日本の海軍が「比叡」と「金剛」の2隻で送り届けることにしたからで、東京の品川湾を10月5日に出航。2隻は翌1891年(明治24年)1月2日にイスタンブール到着をはたし、国をあげての歓迎を受けた。
エルトゥールル号の犠牲者の正確な人数は定かでない。横浜出航時の乗員数が596名とも609名ともいい、確たることは不明なのだが、初期の墓碑は犠牲者を581名と記している。
生存者が帰国の途についてからも、大島では遺体や遺品の収容と捜索がつづけられ、10月7日までに239体が埋葬されている。埋葬は遭難現場を見おろす、樫野埼灯台手間の村有地。最初の墓碑は事故の翌年に大島村と県知事名で建てられたが、1929年(昭和4年)には「大阪日・土貿易協会」によって追悼碑が建立された。この年、和歌山県南部を行幸された昭和天皇が墓前に手を合わせられたことを伝え聞いた新生トルコの指導者ケマル・アタチュルクは、エルトゥールル号の墓地の大改修と、トルコ式の弔魂碑の建立をきめ、1937年(昭和12年)にこれを完成させた。そして序幕祭の式典は「エ号」遭難50周年を2年繰り上げて行われた。
弔魂碑の大理石の塔が白くまばゆいこの墓地公園には、ガムの包み紙1枚落ちていない。芝生の回りには四季、花々に彩られている。地元、樫野の人たちがいま手入れと清掃を欠かさないからだ。また、樫野小学校(現在は統合され、串本町立大島小学校)の児童たちは「エ号」遭難の翌年から学校行事のひとつとして、墓地の清掃をつづけてきている。トルコの海軍の関係者と民間人もこと地を訪れると、小学校に立ち寄って謝意をあらわしていくと言う。「エ号」の遭難から今年は112年。串本町とトルコの「草の根民間交流」は途切れることなく、「樫野」こそ日ト友好のメッカなのである。なお、串本町はトルコのヤカケント町とメルシン町と姉妹縁組を結び、親善の契りを深めている。 |
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