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♪ ここは串本 向かいは大島
仲を取り持つ 巡航船・・・ ♪ |
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と、民謡『串本節』にうたわれている「紀伊大島」は、東西に8km、南北に4kmほどにお島だ。1890年(明治23年)9月16日のひどい嵐の夜のことだった。島の東端の樫野崎灯台の戸をたたく者があった。全身ずぶぬれで、衣服もずたずたの外国人の男たちが数人、助けを求めてきたのである。男たちは半死半生だった。
灯台の滝沢技師は宿直の助手を樫野区長の家へ走らせて急を知らせ、ただちに介抱に当たった。樫野崎沖は熊野灘でも名だたる海の難所。灯台の明かりをたよりに岸をよじ登って助けを求めてきたかれらが、遭難した外国船の乗務員であろうことは、一目瞭然だった。滝沢技師はかれらとの会話を試みた。さし当たって知りたいのは、どこの国の人たちかということ。だが、言葉が全く、通じない。そこで技師は、世界の国々の国旗がのっている「万国信号ブック」をひらいて、かれらの国の国旗を指してもらった。指されたのは、三日月と星がデザインされた、オスマン帝国(トルコ共和国の前身)の国旗だった。
「トルコ国といえば確か3ヶ月ほど前、親善使節団を乗せて横浜に入港し、大歓迎を受けたと。新聞に書かれていた。もしや、その船が遭難したのでは・・・」
滝沢技師の憶測したとおりだった。トルコと日本の交流のさきがけになったのは、後に「東京日々新聞」の社主になった福地源一郎である。1871年(明治4年)に岩倉具視の西欧視察団に加わった福地は同年、イスタンブールでオスマン帝国のスルタン、アブドゥル・ハミト二世に会見の栄を得た。1875年(明治8年)には、日ト両国間で通商条約締結への交渉が開始されている。西欧列強との不平等条約に不利益を押しつけられていた両国は、平等の条約締結をめざしたが、列強との摩擦を恐れ、機が熟すまで見送ることになった。
1887年(明治20年)に日本の小松宮彰仁親王の訪問を受けたアブドゥル・ハミト二世は、その返礼として、オスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする大使節団を日本へ送りだした。使節以下600名あまりの将兵を乗せたエルトゥールル号は2344トン。全長46メートル。600馬力の機関を持つ木造の機帆船で、速力10ノット。オスマン帝国海軍の巡洋艦で13の砲門を備えていた。出航前から老朽化が心配されてはいたが、1889年(明治22年)7月15日にイスタンブールを出航し、日本への長途についた。故障や資金不足に悩まされながらの苦難の旅で、スエズ、アデン、ボンベイ、コロンボと寄港し,シンガポールで越年。サイゴン、香港、福州、長崎と北上して、横浜港に接岸したのは、6月7日。出航から11ヶ月弱の月日が要されていた。
明治天皇とも会見した特派使節の一行は、各地で盛大な歓迎を受けて3ヶ月の滞在を終え、遭難2日前の9月14日に横浜港を離れて帰国の途についた。日本の政府は、この季節が台風シーズンであることや、エルトゥールル号が建造から30年も経ていることを懸念。出航を長期に延長し、船体の修復を万全にしてからの帰国をすすめたのだが、一行は帰国を急いだ。「本国からの通達」をその理由にしたが、横浜ではコレラが猛威をふるっており、10数名の将兵が命を落としていたからではないかと言われている。
エルトゥールル号は太平洋岸を南下して行き、紀伊半島の先端をかわして神戸港へ入るべくコースをとった。だが、熊野灘にさしかかった艦が折から北上中の台風の真っ只中へ突入していく形になってしまい、出航2日目の晩、樫野埼付近の岩場で座礁。船底からの浸水で機関が蒸気爆発をおこして船体が割れ嵐の海へ沈んで行った。 |
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